読書記録 「運転者」

主人公である修一は、タクシーの中でラジオから流れてくるアーティスト「YUMEKA」のヒット曲が生まれる背景やその曲に聞き入っていた。そして、十年以上前の出来事を回想するところから物語は始まる。

修一は前職から完全歩合制の生命保険のセールスマンに転職した。その会社は社長・脇屋と社員六人しかいない小さな会社だった。転職後すぐに大口案件を獲得したが十か月後にはすべて解約になってしまい、その解約による損失は修一が支払わなければならない状況にあった。また、翌月に計画されているハワイへの家族旅行の代金を支払わなければならないがこの解約によって払えそうもない。中二の娘は不登校になっており、学校での面談も控えていた。実家の母・民子は今は元気でよいが、介護が必要になればもう自分にはどうすることも出来ないと不安を感じており、修一は精神的にギリギリなところまで追いつめられていた。無意味なことは承知で大口案件を解約した相手先にとりあえず出向いていた。その時、妻・優子からの電話で学校の面談が三十分後であることを思い出した。修一はすぐに大通りに出ると一台のタクシーが修一のものへやって来た。そこから不思議な運転手との会話が始まった。

運転手は修一が何も伝えなくても修一のことを良く知っており、運がよくなる場所に連れて行ってくれるという。また、タクシーのメーターは数字が減っていく不思議なもので、メーターがゼロになるまでそのタクシーを使えると伝えられた。運転手は修一の娘の学校に向かった。

学校での面談は電話でも済む程度の話だったため、無理して出向いてきた修一は終始イライラしており、話が終わるとそそくさと学校をあとにした。そこにはタクシーが待っており、修一は運転手から修一が学校に到着する前、優子と担任が話していた内容を聞かされる。それは、その担任や他の先生が保険に興味があるという内容で、もしその契約を取る事ができれば大口の解約を挽回して余りあるものだった。運転手からは、そんな不機嫌な顔をしていては運が向くはずもなく、常に上機嫌でいることが絶対条件であると教えられる。

次に向かった先はカフェだった。修一は上機嫌であることを肝に念じカフェで時間を過ごした。しかし、一向に保険に入ってくれそうな人が現れる気配はなく、タクシーに戻った。運転手は修一の隣にいた人が有名な作家であることを知らされた。人生を変える転機が保険の契約を取るだけではないことを思い知らされる。保険の契約をしてくれる人を見つけるために機嫌のよいフリをしていただけだった。日々すれ違う人たちの中にはいろいろな人がおり、私達の人生に奇跡を起こしてくれる種はどこにでもあることを知らされる。接点を見つけて見知らぬ人から知人、友人、時に恩人になっていくもの。そのきっかけをつかむ条件はやはり上機嫌である、と教えられた。

次に向かった先はバーだった。一人のストリートミュージシャンと出会った。そこで修一はその人の生き方を知る。ギターは指先が固くなるからひくことができる。人間の体はひとつのことを続けているとそれをやるために適したからだに変わって行く。そして、変わっていく間に必ず経験しなければならないことが痛み。人間の体が柔らかいのは何にでもなれる証であり、痛みを経験して初めてスペシャリストになれる。修一がミュージシャンに人生不安ではないのか、と尋ねたことに対する回答だった。修一は帰宅途中にお金が無いにもかかわらずギターを買って帰った。

次に向かう先は時間がかかる場所で、運転手は道中、修一の父・正史の話をした。修一の実家はその昔、文具店を営んでいた。バブル崩壊とともにそれまで順調だった家計は火の車となっていた。その当時、修一は大学三年生であと一年仕送りする必要があった。バブル期の借金がかなり残っており返済できる見通しもたっていなない状態だった。正史は自分の生命保険の金額を確認すると、山登りに行ってくると民子に言い残して家を出たが、そこで待っていたタクシーに導かれるように乗った。

そのタクシーの運転手は、正史が山に行くまでにどうしても蕎麦屋に行って蕎麦を食べなければならないことを伝えた。蕎麦屋に入ると、運転手は正史に正史の父・良蔵の話をし始める。良蔵はサイパンで戦死した。戦死する前日に戦友と最後に何が食べたいという話になった。良蔵は蕎麦が好きで友人は赤福が好きだという話だった。しかし、良蔵は蕎麦を食べたいだろうという友人の問いかけに首を横にふり、自分の生まれたばかりの子供が食べてくれるからそれで良い、そのために自分は命を捧げると言ったという。そして、最後まで上機嫌だったという。その話を聞いた正史は、自分もまた良蔵が貯めてくれた運によって自分が生きてこれたことを知った。そして、運転手には、残りのメーターはもう使わず、次の世代に渡してほしいと言って別れた。そのメーターとは自分に残された「運」のポイントのことだった。正史は、山登りで足を滑らすかわりに蕎麦打ちの道具を買って家に帰った。文房具屋はやめて蕎麦屋を開くことにしたが、それは民子が日本一おいしいと言ってくれることが条件で決意したことだった。

修一はその話を聞き、自分がこれまで生きてこれたのは自分もまた、父や祖父が貯めてくれた運を使ってきたからだと知った。そして、タクシーが向かっていた先は修一の実家だった。修一は、残りのメーターを次の世代に渡してほしいと運転手に伝えた。運転手は別れ際に乗車記念だとブラックバスのフィギュアを渡し、左手を振って去っていった。その後ろ姿が父・正史の姿と瓜二つだと修一は思った。

実家で、母が修一に伝えたことは、父は修一と二人で蕎麦屋をやりたかったが、自分のやりたいことに息子を引き込むわけにはいかない、とそのことを修一に伝えることはなかったということだった。修一は、過去に何度か実家に電話を掛けた際、父が次はいつ帰ってくるのかといつも言っていたことを思い出した。父は他界する直前まで修一がいつ帰ってきても蕎麦を食べさせてやれるように毎日蕎麦を打っていたということを知る。修一は、実家で父の残した蕎麦打ちの道具を持って帰り、保険の仕事はやめることを決意した。

実家から東京に戻るために新幹線の中で、隣に座っていたフィギュア収集が趣味の乗客とブラックバスのフィギュアがきっかけで知り合いになり、それが保険の契約につながる事になる。その乗客は数店舗を運営する経営者で自分を含めた社員の生命保険の必要性を考えていたところだった。その経営者にとって修一の説明が、他のどの保険セールスマンよりも心に響くものであり、修一と保険の契約をしたいと伝える。しかし、修一はすでに保険会社を辞める決意をしていたため、社長・脇屋を紹介すると伝え名刺交換をして別れた。

修一の保険の説明とは、掛け捨てと聞けば使わなかった時に損をしたと感じるが、かといって安心を買う、というだけでもない。保険は自分の将来のためにためておくというよりは、今困っている人を援助している、そうやって払ってきた人だから自分が困った時も助けてもらえる。保険のセールスマンもその助けられているなかの一人、という説明だった。

修一が社に戻り、その経営者とのやり取りを脇屋に報告すると共に辞表を提出した。修一は、脇屋が伊勢出身であることから赤福を土産に買って渡した。脇屋は、修一から聞かされる前に蕎麦屋になるつもりではないかと尋ねた。脇屋もまた社長になる前に不思議なタクシーの運転手に出会っていた。脇屋の祖父は修一の祖父・良蔵の戦友だった。

新幹線で出会った経営者は、修一と契約したいと言っており、社員全員に向けたプレゼンをして欲しいと脇屋に依頼していた。その経営者はフィギュアのお礼として修一に恩を返すためではなく、修一に自分の会社を助けて欲しいと依頼してきていることを脇屋から説かれその仕事を引き受けた。

それからは、修一は保険の仕事でどんどん業績を上げ、不登校となっていた娘は修一が買ってきたギターを触っているうちに「YUMEKA」として有名なアーティストとなった。そして、修一が蕎麦屋になるのはそれから随分と後になってからのことだった。

後日談となるが、いつも修一を責め立てるように接していた優子は、修一が蕎麦打ちの道具を持って帰り、仕事で大口解約がありハワイに行けないことなどすべて話した時、特に怒る様子もなく素直に聞き入れていた。優子は学校での面談に行く途中で大雨にあっており、タクシーに乗ったがそのタクシーが実は不思議なタクシーで運転手からギターや蕎麦屋の話を聞かされており知っていた。また、娘の夢果が歌う「TAXI」というヒット曲は、自分が昔乗ったタクシーの運転手との出会いが元になっている、とラジオのインタビューで話していた。

運転者とは過去からやってきた運を転ずる使者